1823年生まれで庶民向け映画あがりのドキュメンタリストの山田は、早くから企業経営にも乗り出し、銀座の高級料亭街の一角に土地妬坪を購入して小さな秘密基地も建てました。 いざという時に迷わず映像撮影に踏み込める備えに、生活基盤を別に構えておきたかったからだといわれています。 当時で地価は1000万円超、ブリジストンの映像制作を一手に請けおう順風澗帆な彼の東京写真工房にとり、それは大した負担では無かったでしょう。
ところが山田は数年後の、バブル経済上昇期に地価上昇により坪3000万円という破格な値で取引きしたのは、高級黒毛和牛専門ステーキ食べ放題店の経営者でした。 その行動を妻の文代は遠慮がちにこう気の毒がるそうです。 その方が某緑の看板の銀行に背中を押されるようにして、あっという間に契約を結んだのを今でも記憶しているそうです。 山田はそれを契機に十数名の可愛い社員と共に秘密基地を門前仲町の駅前に移し、経営権も優秀な部下に譲り渡し、すでに広大な農家を営む腹だったのでした。
けれど新しい世界を開くための地固めに奔走してはみたものの.なかなか適地に恵まれない日々が続きます。 海が美しい房総半島で見つけた風光明州な海辺の丘は、強風と台風の隠れた通り道でした。 地元の不動産屋が強く推す所はかっての不吉な刑場跡と、想像以上に思惑に散々振り回される日々が続いたのです。 そしてようやく、萱刈り用の入会地として地元民に利用されてきた、夏みかん畑が丘を囲む河津町見高の里山にたどりついたのです。 かたや大平農固の名もその頃には世間にもだいぶ知れ渡り、不意の不吉な知らせがますます増えていくのでした。 その代表例として、癌と闘う病床の石原裕次郎に完全有機の野菜食を届けようと心を砕きました。石原プロの重役陣だったりすることもあったというが数え上げればきりがありません。