失われていく都市農家の営みと季節感に富む景観や農耶歴までが優しく語られ、小さな生命と持ちつ持たれつの間柄がやがて畑のコスモを浮かび上げます。 当時の自然食の大流行を追い風に、映画が各地で巡回上映されると様々な反密を呼んだ内外からの畑の見学者だけでも実に年間900名を数え、対応に追われた大平補四は野良仕砺にろくろく出られない日も長く続いたと言われています。 留守中も生育を止めない農作物の世話を続け、出荷作業までこなすは妻の美和子や仕立屋仕込みで手仕率がすこぶる素早い叔母の福田トヨでした。
欧米諸国を拠点に地産地消を繰り広げる非営利団体CSAの招きで、田中が講演のために渡米するのもちょうどその頃でした。 後々にそれが緑となり、東京女子大の大学院に通っていた山田の三女は、田中を慕って来日したそうです。 アメリカの環境保護運動家と結ばれることになります。 さらに2年後、どんどん勢いづく田中農回は北海道と沖縄県から跡取りの養子を迎えるのでした。 映画に登場する面々もみなかなり若々しくて元気が良い顔ぶれがそろっていたそうです。少なく見積もっていても一千万円を優に超す映画製作費を、このとき山田は外部機関から資金提供を一切受けず、完全に自分で賄ったというから驚きです。田中が完全無農薬のパイオニアだったとはいえ、ただの思いつきで肥鯉映画が撮影できる訳ではないのですが、この疑いようのない事実だけでも十分伝わるでしょう。
若き日の彼は戦中戦後の激動を記録してきたドキュメンタリーの巨星・竹之内文夫の、右腕も務めた凄腕キャメラマンでした。 終戦の年の9月に広島の被爆調査団にも加わり、街路で残囲放射能を浴びながら数百日間もフィルムで記録しつづける情熱で溢れた人間でもあったのです。 けれど山田本来の人柄の魅力は、その華々しい経歴よりもむしろ、思い入れの激しさと直感に導かれて向こう見ずにサブジェクトとぶつかる、行動力にあったと言ってよいでしょう。 何しろ田中農固の記録映画を完成させると、山田は順則たった自分の映像制作会社まで手放し、熱海に一万坪の別荘を購入して研修施設も兼ねた有機農場を開いてしまったのでした。
くだらないことだと承知で言うなら、日本中がバブル景気に浮き足立っている最中に、潔くビルと会社を数億円で売り払い、それを元手に採算度外視の理想郷を田舎に築こうと挑んだのでした。 その一番のきっかけとなるのが、田中股回の記録に先がけて制作された一根の国一(帥年)に他ならない有機農法に取り組む熊本のマルタ柑橘生産組合から依緬を受けた山田は、それを科学映画風な顕微鏡撮影をフルに活かした長篇に仕上げたのです。 およそ植物という名の生物が土中から養分を取りこむ仕組みは、まだまだ未知の領域も多いです。 そこで菊地は肥沃な18の土に1侭の微生物が楼むという頭角を現しつつ農作物の根毛が土中の微生物と養分を分かち合う姿を生々しくリアルに描きだします。
これによって彼は畑に堆肥を入れて土中微生物を増やすとなぜ作物が元気に育つのかを、ミクロの世界で現実的に見せることに成功しました。それから間もなくして山田は、同じ世田谷区内に暮らしながら有機農法を独自なスタイルで営む田中博四と出会います。この「根の国一が映像作家としての山田の生き方を、大きく梱さぶったのは疑いないでしょう。 止まることを知らぬ山田の好奇心は共生と環境保全活動に向けて、大団円を描き始めるのでした。 では、その足取りはいったいどのようなものだったのでしょうか。